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INTRODUCTION

更新日:4月21日

本編の「はじめに」(寄稿募集の企画趣旨文)を先行公開いたします。

 


 たとえば、ある「少女」にとっては漆黒のラッセルレースが夥しくあしらわれたスカートが自分を守るための鎧だったこと。またあるいは、別の「少女」にとっては気高くまっすぐなピンタックが並んだブラウスこそが自らの魂の裸形だったこと。そして、わたし自身にとっては、コルセットの紐を引き絞るときはじめて解き放たれた翼があったこと。すべてのロリィタたちの経験はそれぞれに異なっており、一概にロリィタについて語ることはできない。そもそもこのお洋服らはただの美しい布の集積に過ぎないのではないか。





 しかし同時に、ロリィタファッションほど社会的に過剰な意味を織りこまれたファッションジャンルは類を見ないだろう。日本のポップカルチャーにおける「少女」表象が批判的にロリータ・コンプレックスなどと呼ばれロリィタファッションと混同されることがある一方で、ロリィタファッションのカルチャーにおいては肌の露出を避けるなどむしろ性的なものが忌避されることも多い。フェミニズムの文脈では男性のまなざし(メイル・ゲイズ)への反逆としてのロリィタファッションが語られると同時に、ロリィタファッションの主要アイテムであるコルセットは一部のフェミニズムの潮流では家父長的な抑圧の象徴ともされる。いずれにせよあらゆる意味で、この美しい布の集積はそれ自体が多種多様な言説によって織られたもの(テクスト)ともいえるかもしれない。



 さらにいうと、この織られたもの(テクスト)を構成する言説の多くは、それを纏うひとびとのセクシュアリティの文脈から読み解くことができる。たとえばコルセットを抑圧の象徴として批判する言説にも見られるように、ロリィタファッションは一見すると伝統的な女性性のパフォーマティブな再演に受け取れる。しかし、現代の日本において、コルセットを身に着けて街を歩くことは、周囲から奇異の目で見られることもあり、むしろ規範的な服装のコードからは外れる行為である。過剰な女性性をまとったロリィタはもはや一般社会の規範から外れた女性として見られることになる。つまり、クィア理論を代表する思想家ジュディス・バトラーがドラァグについて主張したように、ロリィタファッションにおける規範に対する過剰な模倣の反復は、かえって規範からのズレや逸脱の契機として機能する可能性を秘めているかもしれない。このように、セクシュアリティというキーワードは、織られたもの(テクスト)としてのロリィタファッションを読み解くための重要な鍵となるのでないだろうか。



 本書の企画は、そんなロリィタファッションを横糸とすれば、セクシュアリティを縦糸として一冊のアンソロジーを編みあげるものである。タイトルの『絶えずくちづけしあう数多の唇としてフリルは』(略称:くちづけフリル)は、リュス・イリガライの「(女性器は)絶え間なく口づけしあうふたつの唇でできている」という言葉を斜めに読み替えたものだ。エクリチュール・フェミニンの思想家であるイリガライの意図とは外れる部分もあるかもしれないが、あえてより多元的・多層的・多義的に解釈できるフレーズとしてこの言葉を掲げたいと思う。もはやけっして性別二元論的な性器を示さないであろう「数多の唇としてのフリル」は、これから一体なにを語りはじめるだろうか。


Written by 川瀬翠


 
 
 

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